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電子メディア時代のアメリカ文学研究

                             西南学院大学  安河内英光

 九州アメリカ文学会は、5月の大会の後、第52年目へと学会の歩みを踏み
出したわけですが、この1年間の通常の学会活動以外のもので最も目立ったも
のは、九州アメリカ文学会のホームページ、つまり、サイトの立ち上げだと思
います。これによって、今まで学会の情報・伝達が紙媒体でなされていたもの
がコンピュータという電子媒体でなされることが多くなると思われます。しば
らくは、今までのように紙によるニューズレターも併用しなければならないで
しょうが、いずれ近いうちに、紙のニューズレターは廃止され、連絡はホーム
ページを見ていただくことになるかもしれません。

 この紙の活字メディアから電子メディアや映像メディアへの表現・伝達の手
段の変更は、1960年代に始まり、ここ20〜30年前から急速に世界的規
模で進んできたものですが、これら電子メディアや映像メディアは、これらに
依存する後期産業社会や大衆消費文明など、現代の社会や文明のあり方や政治
や経済のあり方を変え、さらには、日常生活や人間の意識中に深く浸透して人
間の生き方そのものをも変えてきたものです。このことはまた、私たちが深く
係わっています文学の社会における役割や意義そのものも変えてきたように思
われます。英語、英米文学、英語学などの研究と教育の意義が社会において厳
しく問われていることは周知の事実で、最近いろいろな学会でよく耳にするこ
とですが、その中でも特に、文学研究と教育が難しい状況にあることはご承知
のことと思います。

 最近、文学の終わりとか終焉という言葉をよく目にします。先ず目に付くも
のは、川西政明の『小説の終焉』(岩波新書、2004年)です。川西政明
は、明治以来の「小説のテーマとされてきた「私」「家」「青春」などの問題
はほぼ書き尽くされて、小説は終焉を迎えようとしている」と言います。次
に、昨年秋に甲南大学で開催された日本アメリカ文学会の特別講演の講師に招
かれた作家の高橋源一郎の講演内容があります。会員の皆様の中にはこの講演
をお聞きになった方もおありだと思いますが、高橋源一郎は、『日本文学盛衰
史』(講談社文庫、2004年)という作品で、明治、大正、昭和の文学者を
実名で登場させて、作家の伝記と文壇交流史をパロディ風の物語に仕立てた作
品を書いていますが、アメリカ文学会の講演の要旨は、「明治20年代からの
日本の近代文学は、青春、革命、セックス、孤独、内面、というような言葉を
キーワードやテーマにしたもので、こういう小説はもう終焉を迎えている、賞
味期限が切れている」という内容でした。高橋源一郎は、日本の近代文学の賞
味期限が切れていると言ったのであって小説そのものの賞味期限が切れている
とは言わなかったのですが、評論家の柄谷行人は、「近代文学の終わり」とい
うエッセイ(『早稲田文学』2004年5月号)で、日本の近代文学だけでは
なく世界的に近代文学が、1980年代のポストモダンといわれた後期資本主
義の時代、いわゆるバブルや消費社会の到来によって、コンピュータの電子メ
ディアとテレビやビデオや映画などの映像メディアの大衆文化が社会と人間の
中に深く浸透したことにより、文字という活字媒体がそれまでに持っていた社
会における思想的、道徳的、革命的な面での役割や意味が無くなったと言いま
す。さらに、フレデリック・ジェイムソンが言うように、文学作品がひとつの
世界として自律し完結し統一したものとしてみるモダニズムの文学観が、60
年代以降のポストモダンの、あらゆる境界を横断し脱差異化し脱領域化してい
く思考方法によって壊されて、文学研究が哲学や心理学から人類学や言語学や
社会学にわたる広範囲の学問分野へと広がり、また一方では、文学作品そのも
のよりも批評理論の方が盛んになり、その結果、文学と文学研究のアイデンテ
ィティと意義が曖昧で不明になった(「「芸術の終わり」か、「歴史の終わ
り」か?」『早稲田文学』2004年9月号)という知的状況にも文学研究の
やりづらさの原因があるように思われます。ドン・デリロは、『マオU』
(1991)において、こういう状況における作家の苦悩を描いています。カ
リスマ的ベストセラー作家であった主人公のビル・グレイは隠遁した状態から
世間に再登場しようとしますが、隠遁していた間に社会は変化し、それまで文
字媒体による小説に大きな影響を受けていた民衆は、小説よりもむしろ、コン
ピュータやテレビや映像文化の深い浸透により、それらを通して伝達される、
統一教会の文鮮明や毛沢東などのカリスマ的宗教家や政治家、さらにはテロリ
スト等の圧倒的な影響力や支配力を受けていること、したがって、社会におけ
る作家の存在そのものが極めて危機的状況に瀕していることを認識します。ビ
ル・グレイは、ついには、中東の政治状況に巻き込まれて社会に再登場できず
に無名の人間として死んでいきます。ここには、柄谷行人が言う、文字媒体の
文学の社会における役割や影響力の大きな弱体化や低下が描かれています。

 私がアメリカ文学研究を始めた1960年代初めには、文学研究をしっかり
やればそれは十分に意義があることでありまた社会に貢献できるのだという、
私の内側と外側の社会の中に共通理解というか暗黙の了解があったような気が
しますが、今はその暗黙の了解が曖昧となり少し壊れてきているような気がし
ています。それではどうすればよいのかという答えは私にはありません。ただ
し、人間の真実は、事実による指摘よりも想像や空想の虚構の文学形式による
ほうがより深く提示され認識され得る場合がありますし、また、子供の心と頭
脳の教育の根幹は物語を読ませることにあると思っています。また、私は、個
人であれ共同体であれ国家であれ物語を持たないものはありえないし、もし
も、それらに物語がないとすれば、おそらくそれらは必ず滅びていくだろうと
思いますので、物語の研究と教育は十分に意義があると素朴に思っています。
ですが、今後私たちが、個人としてまた九州アメリカ文学会の会員として文学
研究を続けていく場合、文学の現代の社会や大学における教育という場での意
義や役割が変わっていることを自覚し、それぞれがその問題を自分自身に問い
かけていかなければならないだろうと思います。今後、文学が新しい題材とテ
ーマを開拓していくのか、それとも、電子メディアや映像メディアや大衆文化
に接近し合流していくのか、また、そのときには文学の形式や内容はどうなっ
ていくのか、逆に、文学のあり方が、それが出てきた根源のミューズまでには
遡行しなくても、せめてモダニズムまでには回帰し文学の復権が企てられるの
か、さらに、研究分野の脱領域化はどこまで進むのか、等々の問題について会
員の皆様と議論をしながら文学研究の意義やあり方を模索していきたいと思っ
ております。

(第51回九州アメリカ文学会年次大会の開会式の会長挨拶文に若干手を入れ
ました。)