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宮崎大学 井崎 浩
1960年代のポストモダン小説は、潜在的に進行しつつあったアメリカ社会自体のポストモダン化を読者に突きつけるという一面をもつものであったが、80年代に入ると、テクノロジーの爆発的な進展やハイパー資本主義の浸透と相俟って、アメリカ社会のポストモダンな状況が一気に顕在化してきた。
80年代に自明なものとなったポストモダン状況とは、60年代に予想された以上に大きな混乱を引き起こすものであり、大量消費文化、テクノロジー、メディアの席巻する後期資本主義社会は、一種の全体主義と呼ぶに等しい状況であった。Don
DeLilloのWhite Noise (1984)は、現代人の生がそのポストモダン状況に全体的に絡めとられているさまをドラマ化してみせており、またPaul
AusterのCity of Glass (1985)およびそれを含むNew York
Trilogy 三部作は、社会状況というよりも、ポストモダンおよびポストモダン小説や理論の抱える本質的なジレンマを引きずりだしたが、ある意味では、ポストモダンなアメリカ社会における問題を言語の問題として還元してみせたのだともいえよう。どちらの作品とも、方向性は違えども、現代アメリカが抱える閉塞状況を抉り出している。
しかし、両者ともに60年代のポストモダン小説とは違い、そうした状況からの出口を求めようという志向が認められる。その点をJ・F・リオタールによるPostmodern
Sublimeの概念をもとに検討してみると、前者はポストモダンの圧倒的な現実の中でそのシステムの裂け目を提示しようとしており、また後者はポストモダン・ナラティヴのデッド・エンドの裂け目を探そうとしているのではないかと考えられるのである
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